・1586-1592年(天正14-20年) 『宗湛日記』(茶会の記録)
戦国大名の黒田如水から博多の豪商、神谷宗湛へあてた手紙の中に「密林酒」の文字が記載。

1593年(文禄2年) 『駒井日記』(豊臣家に関する日記)
「三位法院様蜜淋酎御酒御進上成られるへきの由、…」との記述。以降、「美醂酒」・「蜜醂酒」・「蜜淋酒」などで表現されるようになる。

・1596年(慶長元年) 神田鎌倉河岸に『豊島屋』創業

・1614年(慶長19年) 『鹿苑日録』(京都、相国寺の塔頭、鹿苑院の日記)
初めて「味醂」の文字が記載。

・1697年(元禄8年) 『本朝食鑑』
みりんの製造法について、「焼酎を以って之を造る。其法先ず春に糯米三合を用い、水に一宿を浸し、甑で蒸し、飯を作り、冷える持ってこうじを二合与え、同じく一斗焼酎を入れ、頻々之を挽き、蔵に千甕を取り、七日毎に之を挽く、一次なり。三十七日を経て、成る。」と記述されている。
※糖分は1%ほどと推定される(現在のみりんは43~47%程度)。

・1713年(正徳3年) 『和漢三才図会』
みりんの製造法について、「糯米三升を用う、之を一宿漬け蒸し飯と為す、冷麴弐升、焼酎一斗を均しく和し、七日毎に之を攪る、一次なり、三十七日にて成る。」と記述されている。また、「按美淋酎近事多造之其味甚甘而下戸人及婦女子喜飲之」と評されており、江戸時代には下戸や女性に好まれていたことが分かる。

・ 江戸時代中期 古典落語『青菜』
上方の古典落語『青菜』の原型が誕生したとされる。『青菜』には柳蔭(焼酎とみりんを1:1で割った飲み物)が登場する。

・1799年(寛政11年) 
『日本山海名産図会』
みりんの製造法について、「味醂酎、焼酎十石に糯白米九石弐斗、米麴弐石八斗を桶本に醸造す。習日樛を加え四日目、五日目と七度拌きて、春なれば弐十五日程を期となすなり、昔は七日目に拌きたるなり。」と記述されている。
※糖分は約30%と推定される。

・1837-1867年(天保8年-慶応2年)  『守貞漫稿』
関東でウナギの蒲焼やそばつゆにみりんが使われた、と記載。

・1867年(慶応2年) 『第二回パリ万博』
日本が初めて正式に参加した万博で、幕府、薩摩・佐賀両藩が出品した。徳川昭武(慶喜の弟)が名代として、渋沢栄一も随行している。日本のパヴィリオンとして茶店を作り、そこで着物姿の芸者が日本茶とみりんを客に出したという。このパヴィリオンが大変人気を博し、茶店を開設した清水卯三郎はナポレオン三世からメダルを授与されている。また、このパヴィリオンも含めた日本のブースがきっかけで、いわゆる「ジャポニスム」が生まれたとされる。

・1935年(昭和10年)  合資会社『豊島屋酒造』設立
東京の東村山にて本格的に醸造を始める。

・2021年(令和3年)  それは古来伝わる、麴のリキュール『Me』発売開始

・2022年(令和4年) 『Me』が世界三大酒類コンペティションにてメダルを受賞
(みりん史上初)
世界三大酒類コンペティションといわれるIWSC、ISC、SFWSCの全てに『Me』シリーズをリキュールとして出品。すべてのコンペティションでメダルを獲得する。

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