日本人として大変誇らしいパリ万博と渋沢栄一、そしてみりんの歴史についてのお話です。
渋沢栄一が使節団の一人として派遣された1867年の第二回パリ万博は、日本(江戸幕府)が初めて公式参加した万博として知られています。
渋沢栄一は、その渡欧記録を示すものとして「航西日記(共著:杉浦譲)」を記しているのですが、その中に、みりんについての記述があります。
幕府のブースではヒノキ造りの茶屋を建て、そこに立ち寄った方に、芸者がお茶かみりんを振舞った、とのこと。
なぜ日本酒や焼酎ではなく「みりん」だったのか、、
真相は分かりませんが、いかに江戸末期まではみりんが飲み物として認知されていたかが分かるエピソードかと思い、紹介させて頂きました。
現代のみりんのほとんどは「調味料用」として造られていますが、”Me”は飲みものとして造りました。
「全て国産原料」、「無濾過生原酒」、「おり下げ剤不使用」のみりんは”Me”だけ。
ぜひ、一度お試しください。
ちなみに、この幕府のブースはパリで大変な好評を博し、「最も輝きを放っている展示は、異論の余地もなく日本のもの」と万国博の専門紙から評されるほどに。
「アジアの1地域」程度の認識であった日本の知名度を大きく上げ、ジャポニズムブームのきっかけとなったと言われています。
初出店で大成功を収めたのはすごいですね👏
参考:講談社学術文庫『航西日記 パリ万国博見聞録 現代語訳』
寺本敬子『1867 年パリ万国博における「日本」』